公開から2ヶ月以上も経って、とっくに終わっている劇場も多いけど、今更ながら『BALLAD 名もなき恋のうた』の感想。
正直言って期待はずれだった。原作をよく知っているがゆえに、原作と比較して観てしまったところもあるので、それはしょうがないのだが、それを差し引いて山崎監督のファンとして観ても、今回はちょっと外してしまった感が否めない。
原作とは違って、しんちゃんに代わる役どころとなっている、小学生の川上真一。真一は、いじめっ子から好きな女の子を守れない気弱な男の子として描かれていて、むしろ「のび太」に近い。彼は、川上の大クヌギに手を合わせて、「僕に勇気をください」と繰り返しつぶやく。これを見て、真一の成長譚ももう一つのテーマとして描かれるのだろうと思っていた。
ところが、実際に真一は戦国時代に行って、「成長」といえるほどの行動を起こしたのかというと、これが微妙。「又兵衛に大切な人と国を守る時間を与えた」以外に起こした行動といえば、せいぜい「廉姫に自分の気持ちを伝えろと又兵衛に迫る」「父の暁に助けに行こうと迫る」といったぐらい。これでは「成長」を印象付けるには弱すぎる。結局、冒頭に出てきた、真一の好きな女の子もラストでまた出てくるわけでなく、完全にスルーされていた。
キネ旬2009年9月下旬号での山崎貴・原恵一対談によれば、原作では、しんちゃんと又兵衛の「友情」と、又兵衛と廉姫の「恋愛」がバランスよく描かれていたのを、山崎監督は、あえて「恋愛」のほうに重きを置こうとしたという。原作では肝のシーンである「金打」がないのはそのためだ。(山崎監督は「金打」を入れたシナリオも作ってはいたが、それだとどうしても「友情」のほうに傾いてしまうから外したのだという。)しかし、「恋愛」に重きを置いた分、真一と又兵衛の「友情」が薄れ、結果的に真一の成長を印象付けられなくなってしまった。もし、真一の成長も描きたければ、やはり「金打」は外すべきではなかったと思う。真一の「成長」という部分は、山崎監督が一番発揮できそうなところと期待していただけに残念だ。
もう一つ不満に思ったのは、大蔵井高虎の描かれ方。原作では、高虎が廉姫に婚儀を申し入れたのは結局、国を手に入れるためだった。現に、婚儀を断られた際も、「これで国を一つ手に入れる口実ができたわ」と語って春日の国に攻めていることから、廉姫よりも国が欲しかった。一方、『BALLAD』のほうの高虎は、婚儀を申し入れる前に一度廉姫に会っている。高虎が山狩りの最中に、鹿を射ようとしたところを廉姫が突然現れ、止めに入るのだ。この彼女の毅然とした態度に、高虎はどうやら惚れてしまったようだ。そして、正式に婚儀を申し入れるために春日にやってきて、廉姫が想いを寄せる又兵衛と出会うというわけだ。
そして、婚儀を断られた高虎は、廉姫は又兵衛を選んだと思い込んで逆上し、春日の国に攻め入る。って、これじゃ廉姫を巡ってのただの「恋の鞘当て」じゃないか?これは予告編から気になっていたところではあったけど、見ていてちょっと痛々しかった。結局、最後の戦いも、又兵衛と高虎の1対1の対決になってしまうわけで…。ライトな観客には、こういう構図のほうが受けやすいといえば受けやすいのだろうが、なんだかなあ…。(もっとも、又兵衛と高虎の一連の対決シーンは、黒澤明監督の『隠し砦の三悪人』のオマージュと受け取る人もいたが。)
他にも劇中音楽のバリエーションのなさや、役者の細かな動きなど思うところはいっぱいあったのだが、何よりも重要なことが抜けているのではないかという、もやもやとした気分が残った。それが何なのかがうまく言葉に表せなかったのだが、ライムスター宇多丸氏の「シネマハスラー」の批評を聞いて、その一端がようやくつかめた。
案の定、宇多丸氏は開口一番「そもそも『戦国大合戦』の実写化自体、無謀な企画だった」と言って、そこから延々と酷評していったのだが、その批評の中で携帯電話やカメラの使われ方に話が及んだ。『BALLAD』では、廉姫の姿が収められた携帯電話を又兵衛が握り締め、戦に向かう場面があったり、真一の父・暁が戦国時代の人々の写真を撮る場面があったりと、携帯電話やカメラという現代のツールを介して、現代の川上一家と、戦国時代の又兵衛たちが馴れ合っている。これを宇多丸氏は「原恵一監督の世界観に完全に反している」と批判している。
原監督作品における携帯電話で思い起こされるのは、『河童のクゥと夏休み』で、テレビ局から逃げ出したクゥを、なりふり構わず携帯のカメラで撮っていく人間たちの描写が印象的だ。宇多丸氏はこれを引き合いに出し、原監督の携帯電話・写メ文化に対する鋭いまなざしをとらえている。現に原監督は携帯電話を持っておらず、ネットもやらないらしい。片やアナログ派、片やVFX界のトップランナーだと、携帯電話への価値観が対照的になるのは当然かもしれない。
考えてみれば、原作の『戦国大合戦』では、しんちゃんと又兵衛は二人の絆の証として、「金打」を行なった。「金打」は、戦国時代の人間が固い約束の印として行なっていた一種の儀式だ。そして、『河童のクゥ』では、クゥは人間と共に暮らせば、河童の生き方を忘れてしまうと悟り、康一のもとを離れる。この二つの描写で共通しているのは、こちら側(現代・人間)の論理・価値観よりも、向こう側(戦国時代・河童)のそれを敬うことで、両者の関係を描いているということだ。向こう側の論理を突きつけられることで、こちら側の人間や観客は、自らの持っている論理や価値観の欠点に気づかされる。あるいは、いつの間にか忘れてしまった大事な何かを思い出させてくれる。原監督作品の肝とも言える部分だ。
そう考えると、宇多丸氏が不快に思うのも無理はない。原監督作品のリメイクなのに、その本質を全く理解していない。だから、こちら側の論理で馴れ合ってしまうような、無神経な描写になってしまったのだと。結局、宇多丸氏は誉められるところを見つけられなかったようで、最後は「戦国大合戦のほうがオススメです」と言ってコーナーを締めくくった。当然の帰結といえよう。
山崎貴と原恵一。昭和ノスタルジーを代表する映画として、比べて語られることの多い『オトナ帝国』『ALWAYS 三丁目の夕日』を送り出した二人。そして、どちらも藤子Fファンということもあって、私は両監督には大きな親近感を持っていた。それが今回、山崎監督が原監督の『戦国大合戦』を実写化と聞いて、かなり胸を躍らせていたのだが、その期待を裏切る形となってしまった。それは同時に、山崎・原両監督の間に決定的な違いがあるということを認識させられた。ある意味においては、それは大きな収穫だったのかもしれないが、これ以降の山崎監督作品を私は素直に楽しめるだろうか。山崎監督の次回作は、キムタク主演の『宇宙戦艦ヤマト』実写版と聞く。このまま、アニメや漫画の実写化ばかりに手を染めるのだろうか。山崎監督は一体どこへ向かおうとしているのだろう…。
(※この記事は、原恵一監督を応援するブログに掲載した記事を元に、当ブログ用に再構成及び加筆修正したものである。)