ぬるオタな日々 by 少恒星

アラフォー独身のぬるオタの日々戯言。

さようならオリンピック

テレビを付ければ、必ずと言っていいほど東京五輪だった日々が終わった。

今回の五輪にまつわるゴタゴタは、ありすぎるほどに語られたし、すでに周知のとおりなので、あえて触れるまでもなかろう。それらは五輪に抱いていた(わずかな)希望や期待を失わせるには十分だった。緊急事態宣言下でのお祭り騒ぎに、テレビの光景はパラレルワールドの東京で行われているとしか思えず、日本選手の活躍やメダル獲得のニュースが報じられても「だから何?」としか思えなかった。*1

そもそも、東京に来ようが来まいが、五輪については以前から疑念を抱いていた。「平和の祭典」「参加することに意義があるとか綺麗事を並べても、国別でメダルの獲得争いを繰り広げ、スポーツと政治は無縁と言いながら、政治的な威信や思惑が常につきまとう。五輪の理念や精神なんぞ、とっくの前から揺らいでいるように見えた。ましてや自国での世界的スポーツイベントの開催なんか、僕ら世代からすりゃ、1998年長野五輪と2002年サッカーW杯でもうやったでしょって感覚だから、あまり意義を感じられなかった。

それでも全否定する気になれなかったのは、選手たちの頑張りには毎回心打たれていたし、その努力も認めたいという思いもあったからだ。私は運動神経ゼロで運動嫌いだが、スポーツそのものは嫌いじゃないし、どんなことであれ自分に無いものを持っている人たちには、強い憧れと敬意を抱いている。だから、これまでの五輪では、大方の国民同様、選手たちの活躍にテレビの前で一喜一憂していた。しかし、そういう選手たちの頑張りと、彼らが私たちに与える感動を「免罪符」にして、五輪は生きながらえていたのだった。

もし平常時であれば、五輪の闇にも目をつぶり、会場へ直接観戦しに行くほどに、私も東京五輪を楽しんでいただろう。しかし、その闇の深さが露呈したことで、与えてくれる感動と天秤にかけても、つり合いがとれなくなった。加えて、国民の生命が脅かされているにもかかわらず、自国民よりも己のメンツを優先して守ろうとする、国と東京都の政治体質も露わになってしまった。なんとなくわかっていたこととはいえ、100年に一度あるかないかという惨禍が起きても、この始末なのか。

そして、そんな状況であることを忘れ、日本選手団の活躍に沸き立つSNSのタイムライン。楽しむのは各々の自由なのは頭ではわかっているものの、その脳天気さに少しばかり苛立ちも覚えてしまった。そんな複雑な感情が渦巻くばかりの東京五輪だった。

来年には北京冬季五輪、そして3年後にはパリ五輪と、これから先も五輪は続いていくだろう。しかし、今回のようなことを経験してしまっては、もう五輪を素直に楽しむことはできない。選手たちの活躍には今後も期待したいが、彼らの活躍の場は別に五輪だけじゃない。選手からすれば、五輪だけじゃなく普段から接してほしいと願っているかもしれない。五輪に幻想を抱くのは、もうおさらばしよう。

 

f:id:shinchu:20210811231115j:plain

f:id:shinchu:20210811231213j:plain

自転車競技の会場だった有明アーバンスポーツパーク。
結局使われることのなかったチケット販売窓口がむなしい・・・。

*1:もっとも、かく言う私も、野球に限っては、村上・山田といったヤクルト勢の大活躍があって、多少は盛り上がっちゃったが。